《ハプスブルグとロシア》    文責:やまなしさぶろう

 ハプスブルクとロシアは、ヨーロッパなのでしょうか。ウィーンはヨーロッパの町、ヨーロッパらしい町、という印象があります。しかし、ウィーンから東に進めば、すぐにスラヴの土地に入り、ドナウ河沿いに進めば、ハンガリーの平原地帯へと入っていって、アジア系騎馬民族やイスラーム帝国との攻防の歴史が広がります。オーストリアという国名の語源はオストマルク、東方辺境という意味であり、ウィーンの町は東への最後の防衛地点です。ここを突破されますと、東からの軍団はもはや地形的に遮られることなく、ボヘミア、ドイツ、ベルギー、フランスなどへと、あふれ出ることができます。1529年と1683年には、イスラーム系のオスマン帝国の軍団がウィーンを包囲しました。もしもこの時、ウィーンが攻め落とされていましたら、現在のヨーロッパはなかったことでしょう。ハプスブルク帝国がヨーロッパの東方への守護者としますと、ロシア帝国は、ヨーロッパとアジアの仲介者、ということになりましょうか。モスクワの町はアジア的で、古代的な、キリスト教信仰の町でした。そして意外と、地中海世界とのつながりが深く、ロシア皇帝の位も、地中海のビザンティン帝国の位を継承するものでした。また、その信奉するロシア正教も、古代地中海世界の名残りを非常に強く感じさせるものです。そしてロシアは、一方ではやはり、ヨーロッパの東方への守護者であると自認いたしますとともに、他方では、ヨーロッパとアジアをまたいで世界を見つめる普遍性をも持ちました。良い悪いは別にして、ロシアがヨーロッパに収まりきらないことは、たしかだと思います。そのようなハプスブルクとロシアでは、もはや帝国は滅び去り、世界地図の上に描かれる国境線は変っています。しかし、それにもかかわらず、残り続けているものがあると思います。国破れても文化が残り、それぞれに、独特の雰囲気を強烈に残しています。ヨーロッパの東方境界に存在して、現在の国境線とは異なる歴史を思い起こさせるものは、とくに、音楽に表現されているのではないでしょうか。西方からウィーンを訪ねれば東方に出会い、東方からウィーンを訪ねれば西方に出会い、そしてロシアには、世界との出会いがあります。言葉によって表現し尽くしえない雰囲気は、まさに、音楽の表現しうるものであります。ハプスブルクからロシアへの旅とは、ハプスブルクへの旅と、ロシアへの旅、そしてハプスブルクからロシアへの旅の、三層で構成されうることでしょう。ルービンシュタインとリストとの出会いのように、旅は出会いによって豊かになります。この旅が日本に通じて、さらに新しい発展の生じますことを、望んでいます。

Are Habsburg and Russia European? Vienna has the impression that it is a European city, a European city. However, if you proceed east from Vienna, you will immediately enter the land of Slavs, and if you proceed along the Danube, you will enter the plains of Hungary, expanding the history of battles with Asian equestrians and the Islamic Empire. .. The word austria means etmark, the eastern frontier, and the city of Vienna is the last point of defense to the east. Once breached here, corps from the east can no longer be topographically obstructed and can spill into Bohemia, Germany, Belgium, France, etc. In 1529 and 1683, the Islamic Ottoman army encircled Vienna. If Vienna had been overthrown at this time, Europe would not exist today. If the Habsburg Empire was the guardian of the eastern part of Europe, would the Russian Empire be the intermediary between Europe and Asia? The city of Moscow was an Asian, ancient town of Christianity. Surprisingly, it had a deep connection with the Mediterranean world, and the Russian emperor's position also succeeded the Byzantine empire of the Mediterranean. Moreover, the faithful Russian Orthodox Church also makes the remnants of the ancient Mediterranean world very strong. And Russia, on the one hand, admits itself to being the guardian of the eastern part of Europe, while on the other hand it has the universality to look at the world across Europe and Asia. Aside from good and bad, I think it is certain that Russia does not fit in Europe. In such Habsburgs and Russia, the empires are gone and the borders drawn on the world map have changed. But nonetheless, I think there is something that remains. Even if the country breaks, the culture remains and each has a unique atmosphere.The music that exists at the eastern border of Europe and reminds us of a history different from the present borderline is probably expressed in music. If you visit Vienna from the west you will meet the east, if you visit Vienna from the east you will meet the west, and in Russia you will meet the world. The atmosphere that cannot be expressed in words is exactly what music can express. A trip from Habsburg to Russia could consist of three layers: a trip to Habsburg, a trip to Russia, and a trip from Habsburg to Russia. Just like Rubinstein's encounter with Liszt, travel is

enriched by encounters. We hope that this journey will lead to Japan and bring about new developments.

 

日本の名曲とクラシックシリーズ 秋編 

信時潔について 1887年(明治20年)ー1965年(昭和40年)。牧師の子として生まれ、幼少より讃美歌に親しんだ。東京音楽学校を卒業し、ドイツ・ベルリンへ留学。帰国後は東京音楽学校で教授として後進の指導にもあたりました。作風は、ドイツの古典派、ロマン派にもとづく簡素で日本的などこか控えめな感じのする曲です。ただ、信時が50歳の時に、万葉集の大伴家持の歌の一節を用いて作られた歌曲「海ゆかば」が戦争中に盛んに用いられてしまったため、戦後ずいぶんと批判されることとなり、戦後は山田耕筰とは対照的で、きわめて地味な活動で公に発言することもほとんどありませんでした。信時さんが生きていたような時代に西洋音楽を学び、日本の国で音楽を創っていく新鮮さと未熟さと難しさ、色々な足跡を信時さんの曲から感じ取ることができます。 

・小学唱歌「月」による10の変奏曲・・・信時のピアノ曲のうちで最も若いころの作品。1910年(23歳)作。 

・「野花と少女」・・・1928年の作品。彼が尊敬するシューマンの小曲にならって、可憐で新鮮な演奏会用小曲を目指して作られました。3つの章から成ります。 

・「俚謡小曲集」・・・帰国後間もなく(1926~27年頃)の編曲。日頃耳に親しいわらべ唄、物売りのうた、俚謡などを思い出すままに、また知友の採譜の手の入るままに簡易なピアノ譜にしました。保育園や小学校の遊戯の際にも使えるようにと思っていたそうです。