2001年、植村照ピアノリサイタル「スラヴ音楽の秋」

 私は、大学卒業後ポーランドに留学しましたが、その際は、見るもの、聴くものすべてが、自分にとって新しく、受けとめるだけで精いっぱいでした。四年前に帰国し、生活の大きな変化の中でもピアノを続けていくうちに、自分の音楽がようやく言葉になりかけてきたと感じるようになりました。それをきっかけに、開催する決意をしましたのが、このコンサートです。そして、音楽が自分の言葉になりかけた時、頭に浮かんだテーマが、この「スラヴの音楽」というものでした。
 私の訪れたスラヴの地域は、日本と変わらない部分もありましたが、今でも目を閉じると、車窓から見たどこまでも続く平らな大地や、寄り添うように固まったささやかな集落、心まで澄みわたる寒さの中の白い風景と、人恋しい温もりを感じさせる、だいだい色の明かり、そしてその明かりに集う人々と音楽・・・といった情景がよみがえってきます。もちろん、私が知っているのはほんの一面にすぎませんが、スラヴの地域は、古き良きヨーロッパの名残りを、ある意味で最もよく残しているように思えてなりません。
 本日は、ソプラノ歌手の磯島朋子さんにも賛助出演いただき、私が見て感じたスラヴ音楽の、また西ヨーロッパとは違った味わいを皆さんに少しでもお伝えできるよう、心を込めて演奏いたします。

2006年、植村照ピアノリサイタル「ハプスブルグからロシアへの旅」

 大学時代より私は、スラヴの音楽を好んできました。哀愁を帯びながらも、人間的な温もりを感じるからです。ところが、ここ数年の活動の中で、モーツァルトやシューベルトのようなウィーンゆかりの作曲家たちの音楽にも、すばらしい美しさを感じるようになってきました。19世紀ホールで出会った、コロコロと転がるようなタッチと心地よい響きを持つベーゼンドルファー社のピアノ。大正時代に海を渡って京都の明倫小学校にやって来た、優雅なフォルムとまろやかな響きを持つアントン・ペトロフ社のピアノ。ハプスブルグ帝国の生み出した2つの楽器との出会いが、おそらく、私の音楽の世界を、スラヴ地域から西の方へと引き寄せてくれているのではないかと思います。私の音楽活動の流れは、そのため時間的に言えば、ロシアからハプスブルクへとなりましょうが、ここではそれを、「ハプスブルグからロシアへの旅」として表現しようと考えました。このテーマは私にとりまして、心の風景の旅、精神的な風景の旅でございます。

《ハプスブルグとロシア》    文責:やまなしさぶろう

 ハプスブルクとロシアは、ヨーロッパなのでしょうか。ウィーンはヨーロッパの町、ヨーロッパらしい町、という印象があります。しかし、ウィーンから東に進めば、すぐにスラヴの土地に入り、ドナウ河沿いに進めば、ハンガリーの平原地帯へと入っていって、アジア系騎馬民族やイスラーム帝国との攻防の歴史が広がります。オーストリアという国名の語源はオストマルク、東方辺境という意味であり、ウィーンの町は東への最後の防衛地点です。ここを突破されますと、東からの軍団はもはや地形的に遮られることなく、ボヘミア、ドイツ、ベルギー、フランスなどへと、あふれ出ることができます。1529年と1683年には、イスラーム系のオスマン帝国の軍団がウィーンを包囲しました。もしもこの時、ウィーンが攻め落とされていましたら、現在のヨーロッパはなかったことでしょう。

 ハプスブルク帝国がヨーロッパの東方への守護者としますと、ロシア帝国は、ヨーロッパとアジアの仲介者、ということになりましょうか。モスクワの町はアジア的で、古代的な、キリスト教信仰の町でした。そして意外と、地中海世界とのつながりが深く、ロシア皇帝の位も、地中海のビザンティン帝国の位を継承するものでした。また、その信奉するロシア正教も、古代地中海世界の名残りを非常に強く感じさせるものです。そしてロシアは、一方ではやはり、ヨーロッパの東方への守護者であると自認いたしますとともに、他方では、ヨーロッパとアジアをまたいで世界を見つめる普遍性をも持ちました。良い悪いは別にして、ロシアがヨーロッパに収まりきらないことは、たしかだと思います。

 そのようなハプスブルクとロシアでは、もはや帝国は滅び去り、世界地図の上に描かれる国境線は変っています。しかし、それにもかかわらず、残り続けているものがあると思います。国破れても文化が残り、それぞれに、独特の雰囲気を強烈に残しています。ヨーロッパの東方境界に存在して、現在の国境線とは異なる歴史を思い起こさせるものは、とくに、音楽に表現されているのではないでしょうか。西方からウィーンを訪ねれば東方に出会い、東方からウィーンを訪ねれば西方に出会い、そしてロシアには、世界との出会いがあります。言葉によって表現し尽くしえない雰囲気は、まさに、音楽の表現しうるものであります。ハプスブルクからロシアへの旅とは、ハプスブルクへの旅と、ロシアへの旅、そしてハプスブルクからロシアへの旅の、三層で構成されうることでしょう。ルービンシュタインとリストとの出会いのように、旅は出会いによって豊かになります。この旅が日本に通じて、さらに新しい発展の生じますことを、望んでいます。

アントン・ルービンシュタイン Anton Rubinstein (1829-1894) ペテルブルグの夜会 Op.44 より

ロマンス 変ホ長調 

1860年の作品。アントン・ルービンシュタインは、現在のモルドヴァ共和国で生まれました。当時はロシア帝国です。後に数多くの大ピアニストを輩出するロシア・ピアニズムの源流に位置付けられています。一時はリストに師事しました。ピアノの機能を限界まで使うような、力強い演奏を特徴としていたようです。1848年からは祖国に戻って、ロシア皇室のピアノ教師になるとともに演奏活動も続け、1861年にはペテルブルグ音楽院を設立しました。

この曲を弾くと、11年前に、チェコ国境近くのポーランドの村で経験した「夜会」を思い出します。テーブルごとにキャンドルが灯され、橙色に揺らぐ光の中で繰り広げられる幻想的なピアノコンサートでした。ワインを片手に、静かな音楽の時が流れていきます。そのような特別なコンサートに出演する機会を与えていただいた私は、雰囲気そのものに圧倒されて、日本のクラシック音楽とは何なのだろうか、と随分考えさせられました。さまざまな想いが巡る1曲です。

2010年、岡山県津山市 勝北文化センターでのリサイタル

 この勝北、津山は、私の祖父、祖母、父、母の故郷であり、私にとりましても小さな時から何度も何度も通った思い出の地でございます。この思い出の地でこのような機会を持てました事に、勝北文化協会はじめ関係者の皆様方に改めて御礼申し上げます。
 勝北での思い出といいますと、私が小さかった頃、よく母に連れられて、今日も聴きに来てくれていますが、祖母が住む市場の家で過ごしたことばかりです。夏の星空がとてもきれいなこと、五右衛門風呂に入って底がとても熱かったこと、田んぼでの焚き火で作った焼き芋のおいしかったこと、結婚後では家族三人で広戸仙に登り、意外に道が険しかったことなど、昨日のことのように思い出されます。
 役場から左折して車で北へ進むと、広戸仙の山なみが目の前に広がりのどかで自然豊かな風景を見るたびに心がすう~っと解き放たれたような安心した気持ちになってくるのが不思議です。そんな気持ちにしてくれるこの勝北は、私にとって第二の故郷として、これからも勝北、津山のつながりを大切にしてゆきたいと思います。

2011年、植村照ピアノリサイタル「時の駆けゆく中で」

 今回は、「時の駆けゆく中でというテーマで、5月という季節も意識しながらプログラムを構成しております。
 この同じ小ホールにて開催いたしました、私の京都での初リサイタルから早いもので10年近くが経ちました。色々なことがあまりにもめまぐるしく動いていく中で、私にとりましてのこの10年間は、音楽に限らず、京都やクラシックといわれるものの魅力と底力を再発見した時間だったように思います。
 時の駆けゆく中で、先人が残してくれた私たちへのメッセージを、ピアノをとおして追いかけてみたいと思います。皆さまと一緒に新しい発想や、いつの間にか忘れかけてしまっていた感性を少しずつでもつかむことができましたら、これほど嬉しいことはございません。
 心を込めて演奏させていただきます。
 どうぞ最後までごゆっくりお楽しみ下さい。

2013年、ペトロフピアノコンサート 大正ロマンへの憧れ

 みなさまは、「大正ロマン」という言葉から、何を連想なさいますでしょうか?ファッション、竹久夢二の美人画、それとも、今話題の東京駅舎でしょうか。私たちは、外から入ってきた文化や価値観、内から湧き出た開放感や創造力が入り混じって、何とも複雑で不思議な輝きを放っている時代と感じます。たった15年ほどの間の出来事なのに、一体今までにどれだけの人が、この時代の芸術にヒントをもらい、心を潤してきたことでしょう。昭和初期に大改築された旧明倫小学校の講堂で、大正時代のペトロフピアノの音色と音楽から、少しでも「大正ロマン」に思いを馳せていただくことができましたら何より幸いでございます。

日本の名曲とクラシックシリーズ 春編 

1、はじめに

 

この「日本の名曲とクラシックシリーズ」を企画いたしました動機を簡単にご説明させていただきます。ピアノで留学していた頃、ちょっとした場面で、よく「日本の歌」や曲を披露することがありました。自分にとっては、幼い頃から慣れ親しんでいるなんと言うことの無い童謡などですが、「とても美しい」と現地の方々から大変喜ばれました。そんな経験が何度かあり、私は改めて日本の音楽や言葉の美的センス・感性を知ることになりました。帰国後、すでに15年が過ぎますが、日本の作曲家による詞や音楽を演奏していきたいと今も思っています。こうしてソプラノの斎藤景さんと共演させていただけること、「わざえいえい棟」さんのような、芸術性の高い素晴らしい空間に近年出会い、ご縁がありましたことに、大変感謝しています。西洋から入ってきた音楽や楽器などの文化を、四季折々の変化に富み、感性の違う日本で、取り入れていくためにはどのように工夫すればよいのだろう?と学生の頃からずっと考えてきたテーマでもありましたが、このエラールピアノが何の違和感もなくこの空間と見事にマッチしていますように、日本のもの・西洋のものにかかわらず、良いものはどこに行ってもどこに存在していても「良いもの」として輝いているように感じます。そんな両方の持つ輝きを、この春・夏・秋・冬の4回シリーズを通して、この空間に集う皆さまと一緒に

発見できればよいなと思います。

 

2、まず、宮城道雄作曲「春の海」を演奏いたします。宮城道雄さんは、明治27年神戸に生まれ昭和31年に亡くなりました。8歳で失明し、その後、生田流の筝を習いはじめ、筝と尺八を教えて生計をたてるようになります。この曲は、父親の故郷であり失明前に育てられた土地、福山市鞆町(ともちょう)から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したものだそうです。1929年に発表されたこの曲は、フランス人ヴァイオリニストとも競演され、世界的な評価を得ることになりました。曲風に、西洋音楽の息吹を感じられるのは、幼少の頃、神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして覚えた旋律にあると言われています。このピアノ版も自然にお聴きいただけるのではないかと思います。

 

3、中田喜直について

今回、スポットを当ててみました中田喜直(なかだ よしなお)は、20世紀の日本を代表する作曲家の一人です。1923年、大正12年に東京で生まれ、2000年まで生きました。東京音楽学校を戦争のため、繰上げ卒業し、戦争時代は、陸軍としてフィリピンやインドネシアに赴き、本土で特攻隊要因として終戦を迎えたそうです。日本のシューベルトと言われるほど、ファンも多く、生涯に3000曲ほど作曲したそうです。多数の歌曲や合唱曲、童謡の「めだかの学校」「夏の思い出」「小さい秋みつけた」をはじめ、「雪の降る街を」など皆さんにも馴染みのあるポピュラーな曲も残しています。人の心を豊かにしてくれる独特のあたたかいメロディが、彼の作品の特徴だと思います。

歌のほうは、後ほど斎藤さんの演奏でたっぷり堪能いただくとしましょう。

 

自分の手が小さく、ピアノを弾くのに苦労したという中田喜直さんは、ピアノを習う子供たちのために鍵盤の幅を細くすることを提唱したそうです。提案だけでなく実際に作らせ、自身の作曲に使用したというのですから、その実践力にも尊敬してしまいます。次に演奏する「朝の歌」は、小さな手の子どもが無理なく弾けるよう、作られた「こどものゆめ」という曲集の中の一曲です。短いですが、歌を歌っているような優しい気持ちになります。

 

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4、シューベルトの歌曲をリストが編曲した曲「春の想い」

この作品のタイトルは「春の信仰」や「春の予感」などとも翻訳されています。 「春の想い "Fruhlingsglaube"」は1820年、シューベルトが23歳の折にルートヴィヒ・ウーラントの詩に作曲をした作品ですが、この曲は「12の歌曲」の第7曲目として作曲されました。詩の内容は、自然の生命の息吹が感じられる「春」に、惧れを持つことなく自身も新たに生命の胎動、人生の歩みを始めていこうとする詩人ー「おおみずみずしい香り、おお新しい響き! さあ、あわれな心よ、怖れるな! 今やすべて、すべてが移り変わるのだ」ーのこころを謳い上げた作品です。

 

5、ショパン「華麗なる大円舞曲」「英雄ポロネーズ」

2曲ともきっとどこかでお聴きしたことのある曲だと思います。春になると、思わず踊りたくなるような気持ちになりますね。1曲目は名前の通り、優雅なワルツ、2曲目のこのポロネーズが作曲された1842年頃、ショパンは愛人ジョルジュサンドとの関係が良好で心も充実していたようです。それを表すかのように、自信に満ち溢れた堂々とした舞曲に仕上がっています。ちなみに「英雄」というタイトルは、ショパンがつけたものではなく、当時この曲を聴いた人たちが、感心して付けたものだろう、と推測されているようです。

 

日本の名曲とクラシックシリーズ 秋編 

信時潔について

 1887年(明治20年)ー1965年(昭和40年)。牧師の子として生まれ、幼少より讃美歌に親しんだ。東京音楽学校を卒業し、ドイツ・ベルリンへ留学。帰国後は東京音楽学校で教授として後進の指導にもあたりました。作風は、ドイツの古典派、ロマン派にもとづく簡素で日本的などこか控えめな感じのする曲です。ただ、信時が50歳の時に、万葉集の大伴家持の歌の一節を用いて作られた歌曲「海ゆかば」が戦争中に盛んに用いられてしまったため、戦後ずいぶんと批判されることとなり、戦後は山田耕筰とは対照的で、きわめて地味な活動で公に発言することもほとんどありませんでした。信時さんが生きていたような時代に西洋音楽を学び、日本の国で音楽を創っていく新鮮さと未熟さと難しさ、色々な足跡を信時さんの曲から感じ取ることができます。

 ・小学唱歌「月」による10の変奏曲・・・信時のピアノ曲のうちで最も若いころの作品。1910年(23歳)作。

 ・「野花と少女」・・・1928年の作品。彼が尊敬するシューマンの小曲にならって、可憐で新鮮な演奏会用小曲を目指して作られました。3つの章から成ります。

 ・「俚謡小曲集」・・・帰国後間もなく(1926~27年頃)の編曲。日頃耳に親しいわらべ唄、物売りのうた、俚謡などを思い出すままに、また知友の採譜の手の入るままに簡易なピアノ譜にした。保育園や小学校の遊戯の際にも使えるようにと思っていたらしい。

 

研究ノート 「クラシック・コンサート文化を創るプロジェクト」報告  ~京都における実践の一事例

2009年に書き留めた研究ノートです。データもその当時のものです。

こちらから閲覧できます。(Pdfファイル)

初めて明倫ペトロフピアノを弾かせていただいたときの一問一答(2004年)

1. ペトロフはどういうピアノですか。

 ペトロフは、ボヘミア地方で作られてきたピアノです。ハプスブルク帝国の時代に発展したメーカーです。現在は、チェコ共和国になっています。会社のホームページもあって、今も現役です。

 

2. 芸術センターのペトロフを弾いてみられていかがでしたか。

 ペトロフの全てはもちろんわかりませんが、芸術センターのペトロフは非常に良いと思います。垢抜けた形、温かな響き、しっとりした音色が、特徴であると思います。 ただし、あまり使われてこなかったので、低音部や高音部の反応が、まだ弱い状態です。

 

3. 状態のいいペトロフと比べてどうですか。

 ポーランドで弾いたペトロフは、第二次世界大戦後の社会主義時代のもので、より大型のものでもあり、響きすぎる感じがしました。そのため、芸術センターのペトロフを弾いて、ペトロフの印象が良い方向に大きく変わりました。古くて良いペトロフに接することができて良かったです。ただし、ペトロフは今も製作されていて、民主革命以後は良くなっているそうですから、決して新しいものが悪いという意味ではありません。ハプスブルク帝国の時代に作られたものが素晴らしいということです。そんなピアノに京都で出会えたのが、とても幸せです。

社会起業家養成塾での卒塾式(2015年)

皆さまは、どんな音楽がお好きでいらっしゃいますか?

色々な音楽がありますが、幼い頃 音楽の教科書に載っていた唱歌や童謡、またはお母さんが歌ってくれた子守唄など、案外記憶に残っているものなのかも知れません。

 

私はこれまで京都を拠点に、ささやかではありますが様々なタイプのコンサートを企画し、演奏者としても出演してきました。小さなお子さんがおられるご家庭にとって、気兼ねなく足を運べる親子向けコンサートは、現在も非常にニーズが高いです。また、敷居の高そうなクラシック音楽を、より親しんで聴いていただけるよう、ユニークな空間で行なったり、他のジャンルと組み合わせてみるなど、色々な実験を行なってきました。そんな中で、ある時気付いたんです。「コンサートに行きたくても会場へ足を運べない人が結構いる」ということを。その方々の多くが高齢者でした。そして初めて実感し、理解しました。日本全体がすごいスピードで高齢社会につき進んでいる!と。こうして2009年、「はればれ」という名前で訪問コンサート活動をスタートさせました。

 

その活動の中で、新たな疑問が出てきます。「訪問コンサート」のニーズが親子向けコンサートと同様、高いにもかかわらず、奏者と高齢者施設がボランティアの域を超えてつながることができないのは何故か?

 

ここから先は、入塾してから半年近く学ばせていただいた結果をご報告させていただきます。

 

・事業名は「高齢者がより幸せになってもらえる音楽サービス事業の提供」です。

・今後の広報のためにも、事業内容をまとめたカラーパンフレットと「はればれ」用の名刺を作成しました。

事業内容に賛同し、協力してくれる仲間が徐々に増えてきています。演奏家としてだけではなく、音楽療法や音楽福祉活動経験のある仲間との連携を増やし、提供内容の幅を持たせ、今後も学び合っていきたいと思っています。

・直接アポを取ったり、知り合いの紹介などで、事業内容に耳を傾けて下さる高齢者住宅が出てきました。ボランティアではなく、有料でレクリエーションの一つとして開催させて頂ける可能性が出てきています。来年の2月に実際にお試しコンサートをさせて頂ける老人ホームや、先方の予算の範囲内で今後依頼を下さる予定の老人ホームもありました。

 

もう一つ可能性が出てきています。

先日、イギリスの公的な機関、ブリティッシュカウンシル・アート部門の部長さんのお話を聞く機会がありました。その中で、イギリスの大変尊敬すべきところは、時間をかけて、何事においても各機関や団体と連携を組み、しっかり検証することだと感じました。ブリティッシュカウンシルの「高齢社会と音楽」の活動においても、その活動の

・社会的価値

・経済的価値

・教育的価値

・健康と心の幸福

・音楽の医学的効果 を検証し、データとして一般に公表し、その活動に公的な予算を充てる根拠を説明できるようにしているということです。新しい情報が入ったら、私にもご連絡くださると言っていただけましたので、これらの動きに注目し参考にしながら「はればれ」がより説得力を持って活動を展開し、ハッピーでポジティブな高齢社会になるよう、次世代につなげていきたいと思います。

 

最後に、温かくご指導くださいましたコーディネーターの大谷康弘先生をはじめ、すばらしい学びの環境を与えて下さり、考えるヒントや着眼点を多数ご教示下さいました、Dブリッジ 社会起業家養成塾の諸先生方、スタッフの皆さまにこの場をお借りし、篤く御礼申し上げます。そして、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。以上です。本当にありがとうございました。